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モーツアルト、オランダへの旅

2022年12月

過ぎ去ってゆくこの1年、とても多くのことがありました。
光に満ちたクリスマスと、きたる2023年を祝います。
健康で良い年になりますよう。

オランダ、ハーレムの街の大広場。威風堂々とした聖バフォ教会が目を引きます。ここには世界でも指折りのパイプオルガン(Chr.ミュラー製作)があって、これをモーツアルトが子供の頃演奏したという話が知られています。

モーツアルト家族が訪れたオランダの街とは、ロッテルダム、ハーグ、ユトレヒト、ムールダイク、ハーレム、アムステルダム。

1763年9月、ザルツブルグ宮廷室内楽団の副学長(複数のタイトルを持つ)でバイオリン奏者のレオポルド・モーツアルトは家族揃ってザルツブルグを出発しました。この旅のために購入した自家用馬車で華の都パリとロンドンへ向けての演奏ツアーでした。妻のアンナ・マリアと7歳の息子ヴォルフガング、姉のナンネルは12歳。その前の年にも音楽の都ウイーンで彼らは大成功を収めたばかりでした。貴族の夜会の御前演奏で大変な喝采を受けて誉を得たことがレオポルドの確信に繋がったのは間違いありません。
彼は斬新なアイデアと実践力を持つ人物だったといわれます。希な才能をもつ息子を世に知らしめたいという親心は容易く理解できます。が、これに加えて彼はビジネスの才にも長けていました。彼が王皇貴族にプモートしていったのは知名度を得ること、そして収益を念頭に置いたものでした。実際、彼の故郷の年収の何倍もの対価をわずかな演奏で得ることさえありました。
ではヴォルフガングにとって旅はどんなものだったのか。彼のような神童にとって舞台だけであればそれは一種の遊びだったかもしれません。ところが各地の名手との出会いからは新しい知識や発想を得ました。故郷では聴くことができない大編成のオーケストラも耳にすることが出来ました。旅生活から学んだ外国語は作品構想に欠かせぬ要素となっていきます。つまり旅は目新しさと学びに満ち溢れたものだったのです。そののち父親と共に訪れるイタリアツアーについてはよく知られていますが、成熟過程にある彼にこれらの旅がもたらしたものは膨大でした。



ツアーは好評につぐ好評。フランス、英国、ベルギー、そしてオランダへも立ち寄り、全行程はとうとう約3年半もの旅となりました。当時の旅はいうまでもなく一大事です。馬車は論外の時間や危険を伴い、船旅も決して万全で楽なものではありませんでした。興行しながらの移動生活では病気になることすらありました。1764年夏には父親のレオポルドが英国ロンドンで病を患い、翌年にはヴォルフガングとナンネルがオランダのハーグでチフスにかかりました。幸い王室の後ろ盾が窮地を救い、数ヶ月に及ぶナンネルの病も王室専属医によって治療がなされています。

演奏舞台に立つ少年と少女はそれだけでも珍しいものです。即興、初見演奏、姉弟の連弾、父レオポルドとのトリオ演奏も披露されました。ヴォルフガングの即興演奏では、妙なる調べにふと気がつくとなんと1時間も経過していた、時間を忘れるほど魔術的であったとも言われます。「それなら伴盤を布で隠して弾いてご覧」、あるとき、マリア・テレジア女帝の夫の皇帝フランツ一世から冗談まじりにこんな挑戦的な要望を受けたヴォルフガング。答えは簡単です。神童に出来ないことなどなかったのです。のちには目隠し演奏などもして喜ばれたとか。

オランダ公演はナッサウ公ヴァイルブルグの公妃からの要請によってとうとう実現されました。そのままザルツブルグへ帰途につく予定でしたが申し入れを受けてオランダに寄り道した形になりました。

滞在は1765年9月10日から翌年4月まで。その間、モーツアルトは2曲のシンフォニーを含めた10曲以上の作品を書き、そのうちいくつかはオランダで出版もされました。
クラヴィアのための作品KV 24は、オランダ民謡 ”Laat ons Juichen”のテーマによる8つのヴァリエーションです。これはなんと当時皆がこぞって歌ったり演奏するほど流行ったといわれます。作品KV 25はWillem van Nassau 公をテーマに、7つのヴァリエーションから成りいかにも愛らしいものです。
ついで父親レオポルドに一言触れるなら、彼が教育者の立場から1756年に書いた「バイオリン奏法(教本)- Versuch einer gründlichen Violinschule」が著名です。滞在中の1766年、ハーレムで印刷と出版に携わるJ.エンスケデによってオランダ語版(Grondig onderwys in het behandelen der viool) が出版されています。
レオポルドはこれに対して”私が出版したものよりはるかに美しい”と喜びのコメントを残しています。

当時の様子が窺える次のような文面(1765年9月、ハーグ紙、Vrijdagse Courant 掲載)を見つけました。ご覧ください。

「認可のもと、ザルツブルグの宮廷音楽師マスターは9月30日ハーグの Oude Doelen において大演奏会を開催する栄誉を授かった。プログラムには8歳と8ヶ月(*これは掲載ミスで実際は9歳)になる息子と14歳になる姉の連弾演奏があり、彼らの高い芸術性に大いなる拍手が送られたものだ。子息ヴォルフガングのオーバーチュアは新曲で他に類を見ず、ウイーン、ロンドン、ヴェルサイユの宮廷からお墨付きがあったもの」。

「演目が前もって決まっておらず不案内だった。ハーグの演奏会においてはオーバーチュアかと思えば、モーツアルト(ヴォルフガング)がロンドンで作曲したシンフォニであったり、両作品はどちらがどちらなのか分かりにくかった、、、しかしまあそもそも「オーバーチュア」も「シンフォニ」と呼んでいたりしていたので、、、等々。
バイオリンとクラヴィアのためのモーツアルトの作品が父と息子で演奏され、姉弟の連弾曲にはVan Wagenseil その他の作品があった。ヴォルフガングもロンドンで初めて連弾のためのソナタを作曲している」。

「お知らせ:入場チケットはモーツアルト氏の滞在するハーグのブルグワルの角っこ(の家?)で購入できます、、、」。(チケットの値段は3グルデンというかなりの高額であった様子)。

筆者の手元にパリのコレーア社出版の古びた著書があります。モーツアルトの手紙がいくつか載せられています。これは有名な手紙ですから、すでにご存知の方も居られるのではないでしょうか。そうです、モーツアルトが母親を亡くした日に友人のJ・ブリンガー神父に宛てた手紙です。日付は1778年7月3日でパリから投函されました。彼は22歳。ブリンガー神父とはモーツアルト家族と親友関係にあり家族同様の人物です。ちなみに同日父と姉にも書いています。母の大事に触れていないのは彼の思いやりでしょう。



「ああ、最愛なる唯一の友へ! 
僕と共に涙してください、友よ。私の人生の中で最も悲しい日です。夜中の2時にお便りしています。これはやはり言わなければならないことです。私の母、私の愛する母がもういません!、、、神が母を御許に招かれました、神は彼女をお召しになりたかったのです、私には明らかにそう見えた、、、ええですから私は神の采配を受け入れます。母を私に授けて下さった神であるがゆえ、彼女を取り上げてしまうこともできるのです。、、」。

モーツアルトは「神から母を授かった」といいます。彼の深い心が感じられます。


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