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オランダの象徴、オラニエ公  その最後とそれにまつわる新事実

 暑かった夏も過ぎ、新学期の季節がやってきました。

そこで今回のテーマはウィレム ファン オラニエ公について。

祖国の父、オラニエ公(1533−1584)とは、スペインの圧力に立ち上がり、80年戦争と呼ばれる反乱の戦いに挑んだ主導者として英雄的人物です。こうしてネーデルラントを連邦共和國、主権国家(1648年ウエストフェリア条約で独立を承認された)に導いた初の君主です。当時の国旗はプリンスの旗と呼ばれ、上からオレンジ、その下にオラニエ公お気に入りの白とブルーを組み合わせ、1653年あたりまで使われていました。

ドイツのディーレンブルグはケルンから東方約120キロ、ナッサウ家系のウィレム ファン オラニエ公の生まれ故郷です。ウィレムは11歳で従兄から南仏プロヴァンス地方にあるオランジュの領地、そしてオランダ領地をも相続しました。当時オランダを治めていた神聖ローマ皇帝カール五世(スペイン国王でもあった)が、年若いウィレムにローマ・カトリック教会について習得するようブリュッセル行きを勧め、時の経過とともにウィレムは極めて優れた手腕を見せるようになったといわれます。

当時のオランダは北から南まで合わせて17州。カール五世はオランダに広まっていたプロテスタントに圧力をかけていましたが、世界を股にかける戦いに疲労困憊し病に侵された挙句、1555年に退位を決断します。スペイン王位もあわせて丸々と地位を引き継いだのは息子のフェリペでした。事態はオランダにとってさらに一変。プロテスタント宗派はスペイン益々の弾圧に我慢ならず、カトリック教会の聖画や聖像破壊の運動を起こすと、フェリペ二世はこれに残虐で荒々しい粛清を行います。利権問題の衝突や様々な不満の噴出に併せて、自然災害等による食料不足など悪条件が重なりました。オラニエ公とフェリペ二世の間には深い溝が生じ、ましてやオラニエ公の首に賞金をかけるフェリペ二世。このような状況下で起きたのが1568年から80年に及ぶ戦争でした。しかしオラニエ公に待ち受けていたことがありました。

1584年の7月10日。デルフトのプリンセンホフの「歴史の間」と呼ばれていた部屋でオラニエ公はフリースラント州、レーワルデンのウイーレンブルグ市長、その家族メンバーと昼食を済ませたところでした。さてオラニエ公が書斎に向けて階段を降りてゆくと、柱の裏から突如現れたひとりの男。フランス人のバルタザール・ジェラールです。無念にも暗殺者の凶弾に倒れたオラニエ公は死の寸前にこう言ったと伝えられてきました。「ああ、神よ、どうか私の魂、そしてこの心貧しい民にお慈悲を」。

これに関して、2012年3月31日のオランダの新聞(NRCその他)がオラニエ公最後の言葉を否定する記事を掲載したのは、デルフトで4年間ものリサーチが行われた末のことでした。それによると、オラニエ公は市長たちと一緒であり、暗殺場面は以前の通説とは少し異なっていたということ。用いられたピストルは既に判明していた通り、16世紀のラーズロット・ピストルで騎兵部隊などで使用されていたもの。となるとプリンセンホフに今も残る銃弾の跡は大きすぎる。400年以上の歳月の間に人の手によって奥行きまでも広げられてしまったのだろうと。発砲された3発のうち1発はオラニエ公の心臓を貫通して即死とみられ、どう考えても言葉を残す時間はなかった、とこのような結論に落ち着いたのです。

では誰が、なんの目的でその言葉を記したのか。そもそも事件の数時間後に緊急会議が開かれたというのは事実か。そしてその議事録(!)、書面を一瞥する限りでは仏語で書かれたその部分は文面本体と筆跡が異なるように見える、このあたりのことが知りたくなります。

一方、オラニエ公が宗教(プロテスタントとカトリック)の自由を認める立場をとったにもかかわらず、暗殺が謀られたのは初めてではありませんでした。犯人のバルタザールは熱狂的なカトリック信者でフェリペ二世の崇拝者でした。金・二万五千クローネン(約300万ヨーロ)と貴族のタイトルが彼への報酬として保障されたのです。

なんと驚くべきことは、今日になって、フェリペ二世がバルタザールの家族に宛てた書簡(報酬書、礼状)がパリのオークションで落札されたことです。購入したのはオランダのハーグ王立図書館。発表は2019年6月12日になされ、7月10日に一般に初公開されました。

バルタザールには数日後に壮絶な死罪が執行され、のちにその家族からの請求を受けたフェリペ二世は(慢性の)財政苦を抱えながらも、できる限りの対処をしたことになっています。

1584年8月3日にデルフトの新教会に埋葬されたオラニエ公、その周辺にはまだまだミステリーが残り、新しく発見された書簡はそれらを解き明かす一つの鍵になるかもしれません。

ところで最後に、フェリペ二世は日本人を喜んで迎えています。それもまだ中学生くらいの男児たちです。

長崎から命を顧みず海を越えヨーロッパへ向かった天正少年使節団、初等神学校の4人の日本人生徒たちがスペインのマドリードでフェリペ二世に謁見したのは、同じ1584年のことでした。

2019年9月   高橋眞知子

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