甲斐国の地誌「甲斐国志」によると、西暦788年(延暦7年)、甲斐守であった紀豊庭が現在地に社殿を造営したと伝えています。
古来より社中に「諏訪の森」があり当初は諏訪神社であったという見方もあります。
また、「富士本宮浅間社記」では、第7代孝霊天皇の代に富士山が大噴火をし、周辺住民は離散して荒れ果てた状態が長期に及んだとあり、第11代垂仁天皇はこれを憂い、浅間大神を山足の地に祀り、山霊を鎮めたのが大社の起源です。
主祭神・木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)の水徳で富士山の噴火は静まり、平穏な日々が送れるようになったと伝えられ、この神徳が万人の知るところとなりました。
この様に富士山を鎮める為に浅間大神をお祀りしたのは本宮富士浅間神社が最初で、全国にある浅間神社の起源と言われる由縁です。
本宮大社は朝廷からも篤い尊崇を受け、駿河国一宮(するがのくにいちのみや)として勅使の奉幣・神領の寄進を受け、853年(仁寿3年)には従三位を初めとし、その後も順次階位を授けられ、1141年(永治元年)には正一位を授与されています。
歴代武将の中でも最も篤い崇敬を社に寄せたのは、源頼朝、北条義時、武田信玄・勝頼親子、徳川家康でした。1193年(建久4年)源頼朝は、富士山麓において巻狩りを行った際にここに参拝、流鏑馬を奉納しました。
これは現在も流鏑馬祭として伝えられています。
同行の知人は日本で弓道をされており、途中で暫く姿が見え無くなったと思っていましたら、境内の流鏑馬の場所を探していたとの事でした。
1561年(永禄4年)、武田信玄は吉田の諏訪の森の伐採を禁止して富士権現を造営、これが現在の北口本宮冨士浅間神社の元であると言われています。
(つづく)A子
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