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避難民支援の旅・報告レポート アムステルダムからウクライナ国境へ向けて、


2022年5月

これは娘とそのパートナーのウクライナ避難民支援のアクションを筆者がまとめたものである。筆者自身が実際見たものではない、そのため限られた描写になってしまうことを前もってお断りしておきたい。

我が娘が「避難民の援助に行かなくては」といった。ウクライナから避難を余儀なくされる人々を黙って見ていられないと。長年に渡って国内紛争を繰り返してきたウクライナだが、今年2月24日にロシアが介入し侵攻を始めてからというもの、オランダからも避難民を救おうと数多くの人々が行動を起こした。あらゆる交通手段を用いて、ウクライナの国境を超えて人道支援する者もいた。先月3月中旬のことである。戦況の進展は計り知れず一寸先が見えない。筆者は、娘のこの唐突な宣言に異論を唱える代わりに、ウクライナ国境まで行かないようにと注意を促したが、避難民の足となって役立ちたいという彼女の思いは動かし難かったようだ。徒歩で避難する人々の様子はあまりに痛ましかった。

話を進める前に、今(4月末)の状況をお知らせしよう。オランダ政府はウクライナの避難民支援に赴く人々に注意勧告を発している。つまり行くなということだ。戦況もさながら、避難民を装って国境を横行する犯罪者がいる。避難者の女性と子どもをターゲットに誘拐や人身売買が起きているともきくのである。そもそも、女性子どもはウクライナ国内で既に誘拐の対象になっていたといわれる。ウクライナの特殊作戦連隊のひとつであるアゾフ軍団なども、不可解な戦闘軍団が女性や子どもを連隊の防護の盾として使うことがあるときく。実に許し難いことだ。

ベルリンへ到着した娘(美令)とそのパートナー(ダモン)は、避難民支援の受付所で登録を行なうと、ウクライナへ発送される支援物資のパッケージングを行なった。その翌日は目と鼻の先(約100km)のポーランド国境の町フランクフルト・アン・デア・オーダー (Frankfurt aan der Oder)を目指し、町の名の由来である オーダー河(ポーランド語ではオードラ河)の橋を渡ってポーランドの首都ワルシャワを目指した。普段は展示貿易センターとして機能するワルシャワ・エクスポには情報にあった通り7千人以上の避難民が収容されていた。ここでふたりは支援物資の選分けの作業を依頼される。集まってきた物資をよくよくみると古着や使用済みどころか新品の多いことに意表をつかれたという。

彼らの6日間にわたる支援活動計画は全てネット情報に頼って行われたものだ。目標が達せられないことを見極めたふたりはワルシャワから離れ、ルブリン、ドロフスク、へウム、プシェムイシル、レグニツァ、とウクライナ国境や近隣の町々へ連日の移動が始まった。そして各地の駅やバス停に集まる避難民の移動の援助をするうちに次のような重要な情報を得る。
「ウクライナからの避難民はメディカ(Medyka)に到着し、医療、食料、休息、電源の使用、携帯器具の補給補助などが提供されて、避難民の初めての受け入れ場所となる。次の移動先はプシェムイシル(Przemyśl)のショッピングモールに緊急に設置された避難民受け入れセンター。ここで各自が最終的な移動先を決定する」。

この支援の旅の最終日におきた心温まるストーリーとは次のようなものだった。
プシェムイシルのショッピングモールには数知れぬ避難民。その中を縫うようにしてセンターの担当職員に導かれ出会ったのはウクライナ家族(子連れのふたりの母親)だった。8歳と9歳の女の子はまるで姉妹のようにみえたそうだ。「私たちはオランダの知り合いの所に行きます。どうか一緒に乗せて行って下さい」。一瞬不安がよぎったという娘。ふっくらとした体格のお母さんたち、それに足元にある荷物を全て車に収められるだろうか。
一部の伱もなくはち切れんばかりの車がドイツ国境に近づいたのはすでに深夜。疲労を感じ、ホテル宿泊が得策に思われた。運転は娘の役目だった。深夜の長距離運転はただでさえ神経を使うものだが、子連れの避難民を乗せての旅は想像以上に責任の重いものである。

翌日も朝から晴れていた。これならオランダまでの旅はなんの問題もなく思われた。
ウクライナ家族は昨日とは打って変わった様子でホテルの朝食に現れた。すっかり元気を取り戻し身綺麗に整え、同一人物とは思えなかったそうだ。女の子がふと食堂のバルコニーから新緑広がる美しい景色を眺めて「ここは綺麗なところだね」と、母親はこれに涙がこらえきれなくなってしまった。「これがパパ、これがお兄ちゃん、で、これが猫ちゃん」と女の子がポケットから取り出した家族の写真。18歳から60歳迄の男性は国民総動員令によって徴兵され、家族が引き離される。これが今も起きていることである。

バッド・ニュースがもたらされたのはホテルを出たその直後のことだった。ウクライナ家族の支援を約束していたオランダの知人とやらがなぜか音沙汰を絶った。瞬時にして行き場を失ってしまった彼女らの途方に暮れる姿が見えるような場面だ。
ネットの便利とはいえ、早速新しい受け入れ先が得られたのは天の恵みだろうか。それはノルウェーのウクライナ・コミュニティーだった。では、ウクライナ家族をどうやってノルウェーまで運ぶのか?そこレグニツァからノルウェーのオスローまでは約1300km。ふたりとも、その翌日に控えた仕事さえなかったら、躊躇なく彼女らをオスローまで送って行っただろう。
ドイツのベルリン発、オスロー行きのフライトを見つけたのはダモンだった。彼はウクライナ家族からそれぞれ手渡されたパスポートの情報を丁寧に記入し、フライトの手配を走行する車の中で完了させたという。避難者がこんな状況下において他者にパスポートを渡すという行為を想像できるだろうか。余程の信頼があったものだ。

一途ベルリン飛行場へ。ウクライナ家族とのお別れが待っていた。女の子たちは最後にはふたりの腕の中に飛び込んできたという。「飛行機は今晩の8時。まだまだ時間がありますが乗り過ごさないように。どうかお元気で」。たった24時間ほどの短い時間、でも一緒に過ごした凝縮された時間、通いあった心。強いハグ。

その晩遅く、ウクライナ家族からふたりの元に届いたメールは次の通り。
「ミレイさん、ダモンさん、私たちは無事オスローに着きました。お迎えもありましたし万事良好です。本当にありがとう。心から感謝しています。あなた達を生涯忘れることはないでしょう」。翌日には写真が届いた。オスローの雪景色を背景に、お母さんとそっくりな色白で金髪の可愛らしい女の子がふたり揃って微笑んでいた。メッセージには、「御恩は一生忘れません。ホテル代も航空券までも散財させてしまいました。戦争が終わって落ち着いたら、今度はぜひキエフに来てください。あなた達を暖かくお迎えしたいです。それまでは時々連絡し合いましょう」。

往復約3000kmの旅には雪も雨もなく天候に恵まれた。目標達成への強い意志とふたりのチームワークで成し遂げた人道支援。ダモンが以前学んだポーランド語も今回大いに役立った。娘はといえば今もまだ、手首に記号や番号のついたアームバンドをつけたままで、これはウクライナ家族達を伴って国境を越える際の証明(書類のほかに)になったもの。ウクライナ家族も同じものを身につけて、オスローへ発っていったのだ。

戦いは続き、終わりが見えないどころか向かう方向さえ定かではない。個々の意識が求められる世情、我々はその真っ只中にいる。



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