2022年3月
「知音（ちいん）」という言葉を耳にした事がありますか。
中国に伯牙（はくが）という古琴の名手がおりました。伯は姓、牙が名前。伯牙には鍾子期（しょうしき）という親友がおり、伯牙の琴の演奏から細やかな心情を読み取る事ができたそうです。伯牙はこの友が亡くなると、それを痛く悲しみ、二度と琴を演奏をすることはありませんでした。
「知音」とは、心の底から理解がし合える友や恋人のこと。
私がこの言葉に出会ったのは随分と昔のことです。その高貴な響きと深淵な意味を知れば、軽々しく使える言葉ではなさそうです。
「知音」は字に見る通り、音で知ること、音が知らせてくれること。
では音とは何でしょう。光が波動性と粒子性の両者を備えているように、音も波動性（空気エネルギーの振動）に加えて、ミクロな空気の粒子の存在によって聴覚に届くものです。ですが「知音」の根源にあるのは、聴覚で処理される音だけではなく、東洋の思想を背景にした、聴覚を超えた感覚のことです。
メッセージ性のある音は言語に匹敵します。もちろんどんな音でも良いわけではなく、考え始めると混乱してきます。人が楽器を（物も）鳴らすと、その人の情報が伝達されることは明らかです。幸いなことに私にはよく理解できます。音からは確かに多くが聞こえてくるものです。演奏者が奏でる音からは、その人物の様子が伝わってくることがあります。しかしこの感覚を計測するのは難しそうです。この特殊聴覚には大きな個人差があって、演奏家にも聞こえない人は意外に多く、かとおもうと演奏家でなくてもこの耳を持つ人がいます。
人が親しくなったり結ばれたりするのは、波動が合う合わないなど言われるように”知音”のおかげです。
中国の戦国時代に泰の呂不韋（りょふい）という政治家がおりました。「呂氏春秋（りょししゅんじゅう）」という２６編から成る、学説や説話を集めた想書の編集を成した人です。「知音」はこの「呂氏春秋」の故事のひとつです。呂不韋は商人の家系であったにも関わらず、始皇帝の宰相を務めた大物政治家で、始皇帝の実の父であったという説もあります。この呂不韋は博学聡明、強い信念で政治を進めるひとでした。人々を倫理と自然とにかなった道へ誘い、思想の大事をもって政治は行われるべきだと考えたのです。呂不韋は異なる分野から才ある者たちを大勢集めることとし、彼らに最も優れた知識の記述を命じました。それらを収録編集したものが想書の「呂氏春秋」です。完成したのは紀元前２３９年といわれ、著名な書として広まりました
「知音」、ストーリーはおよそつぎのようなものです。
春秋時代は、紀元前770年から221年（様々な説あり）といわれます。当時、古琴の名手に伯牙（伯雅）という者がおりました。彼は中秋の晩に遠くまで船を出しました。中秋とは8月15日とおもわれますが、夜空には輝く月があったかもしれません。船をとある岸につけると、高台へ（？）。伯牙は悠々と琴をかき鳴らしはじめました。その美しく澄んだ音は華麗に、遠くまで響き渡っていきました。誘われるように現れたのはひとりの木こりでした。その名前を鍾子期（しょうしき）といいました。そこで伯牙はこの木こりを前に無心で奏でます。すると鍾子期は一曲ごとに、伯牙の心情や作品について語る事ができたというのです。伯牙は、鍾子期のひと一倍優れた耳にいたく感銘を受けました。心が通い合ったふたりは友情の契りを結び、また次の年も同じ時、同じ場所で会う約束をして別れたのでした。この友情が忘れられることはありませんでした。伯牙は翌年、中秋の晩に船を出し、その場所に赴きます。琴を構え、指先からは再開の喜びを歌うように楽曲が響いてゆきます。しかし、待てども待てども、とうとう鍾子期は現れませんでした。彼はすでにこの世を去っていたのです。自分の死の訪れを知っていた鍾子期は、伯牙との誓いを忘れず、約束の場に自分の墓を建てさせていました。それを知った時の伯牙の悲しみ。鍾子期を偲び、溢れる涙で演奏を終えた伯牙は、おもわず天を仰ぎ見ます。”為に鼓するに足る者なし”。
「私の演奏を、鍾子期以外に誰が理解してくれるだろうか」。激しいおもいで、琴の弦を断ち切り、伯牙はその後決して楽器に触れることはなかったと。
これに付随して「伯牙絶弦（はくがぜつげん）」という言葉もあります。無二の友や、深い人間関係にある者を失った時の悲しみを表現するものだそうです。
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