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アントニーと フォッカー機と その2–女性たち

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 続編にはフォッカー機の紹介を考えていましたが、プランを変更してアントニーと女性についてお話しましょう。ビジネスの成功の裏にある、アントニーの人物像の一面です。

世間にはプレイボーイのイメージを与えたアントニーでした。それにしても、その女性関係はどれひとつとして長続きしませんでした。

「飛行機なら理解できるが女性というものはわからない、、、だから僕は飛行機のほうを信頼する、、、」

とはアントニーの発言です。

明らかに己の課題を意識しながらも、わからぬことは放棄しようとする態度がこの言葉にはよく現れています。放棄といえばその他にもこんなことが。彼は英語が苦手でした。では習得の努力をしたかというと否。

また、あの、「面倒な事は考えたくないし、好きな事だけすればよい」、これではまるでわんぱく坊主。ですが、特出した才能を持つ者にしばしば見られる「幼さ」という見方もあります。

1920年、フォッカーは米国へのセールスを念頭に ”オランダ飛行機製造カンパニー”をアムステルダムに新設し、数年後にはビジネス拡張のため米国移住。いまや米国人国籍を取得したアントニーは ”アトランティック飛行機カンパニー”を、またその翌年には ”フォッカー飛行機コーペレーション オブ アメリカ”を設立して躍進を遂げます。フォッカー機を購入していたKLMオランダ航空にとっても目覚ましい成長期で、世界諸国へ航空路を拡大した時代でもありました。

アントニー・フォッカーのビジネスの全盛期は1920年以降9〜10年間ほどです。もしも次のような事件が起きなかったならば、その後の彼の人生は全く変わったものになっていたでしょう。

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1926年に知り合った26歳のカナダ人女性の名前はヴィオレットといいました。幸せな将来を夢みたふたりは早速ニューヨークで式を挙げます。アントニーの2度目の結婚式です。6000キロ以上も海を隔て、オランダに住むアントニーの母は渡米がままならず、ヴィオレットの家族はといえば、彼女はすでに両親を失っていました。それでも友人たちから祝福を受け、ふたりはいかにも幸福そうでした。ところが1年も経たぬうちに仲違い。家事が不得意だったヴィオレットへの不満? 

飛行機とそのビジネスだけに誠心誠意を掲げるアントニーの例の性格? 

どうにもこうにも夫婦の溝は広がるばかりでした。

たったひとりで悩みを抱え体調を崩したのはヴィオレットです。症状は悪化するばかりか神経衰弱(neurasthenie)と診断され、とうとう長期の入院を余儀なくされます。神経衰弱とは当時米国で一般的に使われていた、ノイローゼなどを含めた広い意味での症状名ですが、身体的、精神的な衰弱は日常生活を奪ってしまうことさえある厄介なもの。

ニューヨーク州に接したニュージャージーのプレスバイテリアン病院から数週間(?)の療養を終えて、マンハッタンのリヴァーサイドドライヴという高層アパートに帰宅したヴィオレットがありました。それは1929年2月8日の午後でした。退院祝いの特別な日であれば、きっと夫のアントニーも自分を待ちかねて、優しく出迎えてくれるに違いないと心高鳴らせた帰宅、しかし夫は不在でした。

この部分は個人的な推測ではありますが、彼は妻の退院を忘れていたのではなく、日中に行っていた新機種のテスト飛行に他の事が入り込む隙もなく没頭したため(無我になり!)帰宅が遅れたのであろう、これが最も真実に近そうです。

その晩の夕食は、メイドと料理人らの暖かい気配りで、彼らと共にテーブルを囲みました。
疲れて帰るとまっすぐベーッドルームに向かう習慣のアントニーは、この晩も帰宅するなり、夕食が彼のために用意されてある事など眼中になく寝室に向かいました。夫を追って寝室に行こうと決めたヴァイオレットの心中は読めませんが、いくばくかの希望があったかもしれませんし、ただ夫に従ったつもりだったかもしれない。寝着に着替えるその前に、彼女はメイドに水をいっぱい持ってきてくれるよう頼んだそうです。この極めて短い時間に、ヴィオレットの心をこのようにつき動かしたのはなにか。

寝室にやってきたメイドが目にしたのは、凍てつくような外氣が吹き込む大きく開いた窓と、前後不覚の様子で眠るベッドの上のアントニーだけでした。

この悲劇はアントニーをトラウマに追いやり、しかもこのあたりから彼の健康に影が差し始めます。事件の数ヶ月後、フォッカーに対して共同ビジネスを提案したのは、自動車産業トップのG・M(ジェネラル・モーターズ)でした。両者は合併事業を進め、アントニーは技術専門部署のトップとしてかろうじて座を保つ格好でしたが、それも2年後には撤退。

折も折、1931年3月31日、フォッカー機の墜落事故が大々的に報道されました。カンサス・シティーからロスへ飛行中、ウィングと胴体の接続部に支障を起こし、全搭乗者8名の命が奪われた事故でした。著名なフットボール・コーチがそこに含まれていたことで報道がエスカレートすることも避けられませんでした。

そして話は1939年に飛びます。

アントニーの人生おわりの半年ほどに訪れたせめてもの光と幸せとは、何だと思われますか。 

もちろんひとりの女性です。彼のプライベート秘書のヨーヨー(ヨハナの愛称と思われる)です。ヴィオレットと知り合った時とちょうど同じ年頃のこのオランダ人女性は、アントニーが喘息で体調優れぬ日々に現れて、喜びと希望を与えてくれました。ビジネス改革の構想を巡らせるほどの力がしばし蘇ってきますが、細菌性髄膜炎という、これが彼の病気でした。経過はすぐれず、医師たちの約3週間に渡る尽力は効をなさぬままクリスマスの前日、12月23日にヨーヨーの腕に抱かれ、天に召されてゆきました。

世界第二次大戦がすでに始まっていました。

大戦中にオランダのフォッカー工場はドイツに占領され、1943年には破壊される運命をたどる、これはまた別の話になります。

翌年の2月3日、オランダ、ハーレムのウェスターフェルド墓地に集まった親族、友人一同の数は1500人ほど。高齢の母親アンナ・フォッカー=ディーモンが健在でした。ヨーヨーは明るい色のジャケットを羽織って、静かにアントニーに付き添ったということです。


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2020年9月 高橋眞知子

*著者の新書「歌の革命」にはフォッカーも登場しますが、上記の内容は含まれていません。

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