在蘭邦人相談窓口のブログ

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アントニーとフォッカー機と その1

 ヴィールスの蔓延は実態が把握できないまま、いっこうに収束がしれず、あらゆる場への打撃や困惑は拡大するばかり。次の秋から冬はどうなるのでしょうか。それに加えてこの記録的な猛暑の連日です。

みなさまには暑中お見舞い申し上げます。


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今回テーマに選んだ人物はアントニー・フォッカー(1890−1939)です。
オランダが誇る航空機のパイオニア、航空機製造で企業を起こした人物として知られます。ご存知のとおりKLMオランダ航空は1919年に創立されました。その当時からフォッカー機はオランダ航空と共にあり両者の歴史は97年も続きました。

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アントニーはオランダ植民地のインドネシア生まれ。コーヒー栽培に携わるオランダ人の父とその家族は共に裕福な暮らしを営んでいました。家族が祖国のハーレムに引き上げたのは子どもたち(姉弟)の教育のためでした。アントニーが4歳の頃です。

学校では始終そわそわと落ち着きのない、アントニーは勉強嫌いな子でいわゆる落ちこぼれでした。「無駄に時間ばかり使う間抜けな教員の授業には我慢ならない」というのがアントニーの言い分でした。嫌なことはせず、その権利を訴える若者はそれほど珍しくありませんが、彼は特に自由奔放だったのでしょう。


モデル電車や蒸気機械ばかりに夢中なこの生徒には教員もほとほと手を焼いたのでは。とはいえ、とうとう中等教育を頓挫させ、好きな道だけに邁進したアントニーのその後を知れば、「学歴とはなんぞや」と問いかけてみたくなるエピソードです。

初めての飛行体験は16歳の時のことでした。閃きがもたらされた瞬間です。

専門技術の習得を目標にドイツへ発ったのはそのためでした。これが1910年です。

その翌年、一時帰郷したアントニーは21歳。8月31日にハーレムの聖バヴォ教会の上空を自作の飛行機、スピン(蜘蛛と命名)で飛行披露するも、これがウィルへルミナ女王の31歳の誕生日に偶然重なりました。記念すべき栄光と名誉の日。感激した父親は、誇らしい息子に自分の貴重な金時計をプレゼント。それもそう、米国のライト兄弟が世界初の有人飛行に成功して以来、主要諸国は競って飛行機の改革に躍起になった時代ですから。

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さらに翌年の1912年、ストーリーは目まぐるしい展開を見せます。

アントニーがドイツのベルリン近郊、航空界のメッカとされる地域にフォッカー・飛行機製造所(工場)を設立したことはセンセーショナルなニュースでした。しかもたった22歳で数千人の雇用者を抱える組織のトップに立つなど、想像してみてください。バックアップしたのは父親です。自身がビジネスに長けた経営者であり、次の夢を息子に託したのでしょう。この世はリスクだらけ、ギャンブルといえば人生そのものがギャンブルであると承知していた親のアクションとでもいいましょうか。オランダ人の商才は世界に名だたるものです。フォッカー談はそのモデルのひとつ。

製造工場はドイツ軍基地の近隣にありました。次々と生産されるフォッカー機。たち働く人々の動きや会話、機械の音が聞こえてきそうです。軍は視察によってその高性能を見届け、のちに飛行訓練学校も開校することになる。軍飛行士のトレーニングの契約まで交されています。ところが、手狭になった工場の移転が済んだその矢先、サラエボ事件を切っ掛けに降って湧いた世界第一次大戦。これはアントニーが予期していなかった事でした。

大戦中のアントニーとフォッカー機の動向はかなり複雑です。

ドイツ以外には他のヨーロッパ諸国とのビジネスがままならず、オランダが中立を表明したことによってアントニーはドイツに留まる決心をします。ドイツ政府が彼をドイツ人として帰化させ、出国を禁ずる措置を取ろうとも、アントニーはオランダ国籍を貫いた、という場面もありました。この間、ドイツ政府に渡って行ったのはフォッカー全機種合わせて約700機です。フォッカーD-VII、VIIIタイプ戦闘機といえば、英国ではその脅威で”空飛ぶ剃刀”と囁かれていた特殊機種とか。

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第一次大戦の終結。その後のヴェルサイユ講話条約では連合国が敗戦国ドイツを大打撃に追い込み、条約に沿った処置のひとつとして、フォッカー工場も閉鎖。アントニーはついに帰国します。

その際、裏技巧みに機体部品やエンジン、財産までもオランダに移すことに成功しています。

1919年に新しい工場をゼーランド州のフェーレに建設し再出発です。のちにこれをアムステルダムに移転した理由は運搬の不便を解決するためでした。

アントニーはこの年にソフィーと結婚しますが4年後に離婚。

そのあと、49歳までのごく短い人生。のち米国に帰化し米国人となったアントニーの物語は次回につづく、としましょう。

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                              2020年8月   高橋真知子

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