1950年頃、野内与吉はペルー国鉄クスコ−サンタ・アナ鉄道で再び働くために、妻のマリア・モラレスとクスコ市へ移り住むことになりました。
定年まで勤めた後、与吉はこの仕事を息子の一人ノウチ・セサル・モラレス(大会講演者;野内セサル良郎の父)に引継ぎます。
与吉は1968年に52年ぶり帰国した折に、日本の家族が日本に戻るように説得しますが、ペルーには11人の子供たちが待っているからと日本の家族と別れクスコに戻ります。
そのわずか2ヶ月後の1969年8月に現地で息を引き取りました。
マチュピチュ村と鉄道の歴史、そしてそれに尽力した日本人の物語はまだあまり知られていません。
この興味深い事実を一人でも多くの方に知って貰えればと、孫の一人である日系三世の野内セサル良郎氏は活動を続けています。
良郎が生まれる6年も前に与吉は亡くなっていますが、祖母が、繰り返し祖父の話を聞かせ「責任感の強い人で村の裁判官もやっていたんだよ」などの話を聞くうちに、良郎の中で祖父は英雄になってゆきました。
2018年6月ハワイ大会での講演
マチュピチュ遺跡は. 観光大国ペルーが世界に誇る自然文化複合世界遺産である。
かつては首都クスコがスペイン軍に陥落したあと築かれたインカ最後の都市とも言われたが、現在では第9代インカ皇帝パチャクティの私有地の一つであったと考えられている。
展示パネルは2011年に現地 でスキャンした画像(野外民族博物館リトルワールド、提供:ニューリー株式会社)
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros/v19n3/v19n3_nouchi.html
日本で働きながら、名古屋の国際交流団体でマチュピチュ遺跡などペルー文化紹介の講師をしてきたのも、祖父に対する思いがあったからです。
この活動のかたわら、祖父が生まれた福島県大玉村やマチュピチュ村のあるペルーを訪れ、村人へのインタビューや文書資料の発掘といった調査を続けています。
2014年、アンデスに関する講演会や勉強会などを企画する「日本マチュピチュ協会」を設立。
さらに多くの方に祖父の存在やペルーの魅力を伝え、祖父の意思を受け継ぎ日本とペルーの架け橋となりたいと語っています。
(資料:日本マチュピチュ協会)
A子
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