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野内与吉とマチュピチュ村(2)野内与吉の家族  

 海外で成功したいという夢を抱いて、1917年に契約移民としてペルーへ渡った野内与吉は、1年後に米国やブラジル、ボリビアなどを放浪、29歳でペルーへ戻り、ペルー国鉄クスコ−サンタ・アナ線(通称FCSA)に勤務、会社専用電車の運転や線路拡大工事に携わり1929年にはクスコ〜マチュピチュ区間の線路開通を体験します。



 野内与吉の建てた村のホテルは、初の大型木造建築で、床は当時では高価だった木材を用い、1階部分を交番や郵便局として無償で貸与、後に2階部分も村長室や裁判所として村のために提供し、「ホテル・ノウチ」を中心に村が発展することになります。


建物の一部には線路のレールが利用され、3階建てで21部屋を持つ立派なホテルでした。


与吉は自分のホテルを村のために提供しました。



ペルー国鉄クスコ−サンタ・アナ線、1941年10月1日撮影



1937年の銘のあるレールと、野内与吉が加工して作った工具類
 

 手先の器用だった与吉は、何もないマチュピチュ村に川から水を引いて畑を作り、水力発電を作り村に電気をもたらしました。


村を住みやすくするため木を伐採していた際に、温泉が湧いたという証言もあります。(現在アグアス・カリエンテス村に温泉がある)。


また、村で故障した機械も修理しました。創意工夫に富み、労をいとわずマチュピチュ村のために尽くして皆に喜ばれていたようです。



 こうして、村で初のホテルを開業したり、水力発電所を作ったりするなど、村の発展に尽力した野内与吉の家族には、マチュピチュ村定住を決めた前年に結婚したマリア・ポルティージョとの間に、1930年に長男が生まれホセと名付けるも2歳で早世。


その後、2人の娘と2人の息子を授かります。後に次男のホセは、1981年から1983年までマチュピチュ村村長を勤めます。与吉が再婚したマリア・モラレスとの間にも、5人の子を授かっています。 



 与吉はスペイン語のほか先住民の言語であるケチュア語に通じ、英語も喋り、現地のガイドもしていた。


のちにアンデス文明研究家となる天野芳太郎がマチュピチュ遺跡を訪問した際に、1週間ほどホテル・ノウチに滞在し、マチュピチュ遺跡を隅々まで知り尽くしていた与吉が同行し案内した。


また、2015年には、マチュピチュ村は、与吉の故郷、大玉村と同村にとって初となる友好都市協定も締結している。



続く


A子


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